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友禅染めは、確かな技術と一点ものという価値が評価され、高度経済成長期には伝統的工芸品として指定され、京友禅、加賀友禅、東京友禅などの名称でブランド化され、贅沢品としての認知が高まっていきました。

私は東京芸術大学在学中に友禅染めを学び、修士課程を修了後、石川県にある工芸作家育成機関、金沢卯辰山工芸工房の研修者として2年間在籍し、時には加賀友禅の職人の方々に教えを乞いつつ、制作を続けてきました。

加賀友禅は、図案を考える「作家」、糊をおく「糸目屋」、背景の染めを担当する「地染め屋」、またそれらの職人を仲介する「悉皆屋(しっかいや)」に分かれています。

 

このような分業が確立したことによる利点や発展は計り知れませんが、同時に制約もあるのではないかと思うようになりました。それは、失敗を防ぐために実験的な生地選びや構図、配色が自然と避けられているからです。

 

分業が確立しているからこそ、各工程での失敗は大きな損失になります。扱いやすい生地や慣れた構図、配色を選ぶことは自然な成り行きです。また、分業が確立していると、着物以外の小さな作品の制作の際にはかえって非効率的で無理が生じます。

 

私は、金沢で感じたそのような感覚をもとに、すべての工程を一人で行うことにより、失敗と実験を繰り返しながら新しい表現を目指してきたつもりでした。しかし、その反面、着物という形にはあえて目を向けないようにしていました。

私が初めて友禅を教わったのは、東京芸術大学の染織研究室でしたので、教える先生の作品は、染めでありながらほとんどが平面作品でした。着物を制作するには仕立て屋さんに外注しなければならず、仕立ての時間もかかるのも、着物制作のハードルでした。

 

また、在学時に、アルバイトで伝統工芸展の審査会場での書類整理に通ったことがありました。その会場で初めて、伝統工芸展で染織部門には着物か帯のみが出品されることを知りました。たくさんの着物・帯が並ぶ会場を眺めつつ、この場所で「先生」と呼ばれる方々に審査され、評価されることで積み重ねていくキャリアへの違和感を感じてしまいました。

 

そうした実体験も重なり、着物制作への関心はますます薄らいでいきました。

卯辰山工芸工房で2年間を過ごした後、工房を出てどうやって生きていこうかと考えていた時期に、会社員をしながら音楽活動をしているミュージシャンの記事をインターネットで読み、そういう生き方もあるのかと、就職活動のためにハローワークに通い始めました。

 

学生時代に美術系の会社でのアルバイトで仕事にあまり馴染めなかった記憶から、全く美術に関係のない仕事を選びました。自宅で小さな作品を中心に作り続けながら、4年半会社勤めをしました。

 

入社一年目で、思いがけなくステージ0の初期の乳がんが見つかり、治療の日々を送りました。乳がんの既往歴のために、子宮内膜症の治療で服用していた内服薬が使えなくなり、そのことからくる不調にも悩まされ、自分の身体なのにこんなにも思い通りにならないものか、と思いました。

 

思い通りにならない身体に腹が立って仕方ない時もありますが、それでも止まらない細胞分裂という現象が不思議になることがあります。身体を蝕む癌細胞も、子宮の内膜も、分裂を繰り返す細胞という点では、他の細胞と同じく生きているのが不思議です。

会社を退職した2023年10月に始まったパレスチナ・ガザへの攻撃。

 

たとえ癌細胞であっても、増殖することで「生きる」原理を持っているというのに、それを止めてしまう人間の暴力。今まで通り会社に通っていれば、経済活動の中で一瞬でも忘れることがあるかもしれないけれど、私にはものを考える時間があり、その考えるエネルギーで自分自身が消耗していくのを感じました。

工房を出て以来、家で作れる作品が小さくなると同時に、自分自身の力も小さくなるような、弱くなるような気がしていたのかもしれません。

 

ここで、自分で自分を武装しなければいけないと感じました。ただし、自分が武装することで他者を傷つけることはなるべく避けたいから、武器の形は、盾のような身を守るものであるのが望ましいと思いました。

 

身体を包み、溢れる情報や暴力的な言葉から自分を守ることが出来る、柔らかい盾のようなもの、そのイメージが着物の形状と合うように思いました。それが今回、着物を作った一番の理由です。

 

今まで色々な理由をつけて避けてきた着物という形に向き合うことで、弱みを克服したいと思いました。

 

女性の身体を描いたのは、自分自身のままならない身体をできる限り肯定的に表してみたいと思ったからです。

 

人物の周囲には、平等院の雲中供養菩薩を配置しました。私自身は仏教徒ではないのですが、大学生の頃の授業や旅行先で親しんだ仏教美術には惹かれるところがありました。

 

20歳の時に平等院で初めて観た雲中供養菩薩には、言葉を必要としない恍惚感を感じました。その記憶が強く、この作品を考えているときに、雲中供養菩薩を描くことによって、中央の人物をよりいっそう超越したものにしたい、と思いました。

着物の裏面には草花の模様の中に「生々流転」の文字と、地中に埋もれた骸骨を描きました。

 

通常、着物の裏面は無地であるが多いのですが、「裏まさり」と言って派手な柄をあえて裏面に表し、表面には表せない題材を描く手法があります。

 

裏面の「生々流転」の文字は、19世紀に女性が物語を書くことの困難について記したイギリス人作家、ヴァージニア・ウルフの「自分一人の部屋」から着想を得ました。

 

ウルフは著作の中で、いまだに女性が優れた物語を書く機会は様々な差別や制約によって限られているが、あと一世紀待てば、それがより可能になると信じる、と述べています。

 

「自分一人の部屋」が発行されてから1世紀が経とうとしています。1世紀前と比べれば、はるかに多くの女性が創作できるようになりました。ウルフが自分の死後の未来に希望を繋いだように、女性が自分だけの個々人の生ではなく、人類としての共通の生について考えれば、そこに希望を見出すことができる、そのように私は受け取りました。

 

これは女性であるが故の身体のままならなさを肯定的に受け入れる支えになりました。

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